弘法大師空海

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生涯

真言宗の宗祖である弘法大師・空海は、お大師様と呼ばれて信仰されています。

お大師様は宝亀五年(774年)に今の香川県である讃岐国多度郡屏風浦でお生まれになりました。幼名を佐伯真魚と言い、父・佐伯直田公は多度郡の郡司でした。母親は阿刀氏の出で、玉依御前と言うお名前で知られています。幼少期から仏教の信仰が篤く、仏様に守られている逸話も多く残っています。
幼い時から聡明でしたので、母方の親戚(叔父と言われています。)で学者の阿刀大足に学び、都で大学寮に行き明経道を学ばれました。しかし、十九歳頃から学問の道を捨て山林修行を始められました。各地で修行をされ、『聾瞽指帰』を書かれ、のちに『三教指帰』と改めた書で、儒教や道教と比較して如何に仏教が優れているかを書くと共に仏道に進む宣言を記されました。
延暦二十二年(803年)、留学僧として遣唐使船に乗って唐へと渡られました。船は嵐に遭い、目的の場所から大きく逸れて、福州長渓県赤岸鎮に漂着しましたが、お大師様の優れた文の嘆願書によって足止めを解かれました。
唐の都・西安で梵語や書を改めて学ばれたのち、青龍寺の恵果和尚に師事し、金剛界・胎蔵の灌頂を授かられました。その間、唐の皇帝の命で王義之の書を修復され、「五筆和尚」という名と菩提子念珠を賜りました。恵果和尚が亡くなった際には顕彰碑の文を考えられました。僅か半年の間に密教の全てを恵果和尚から授かり、大同元年(806年)に帰国されました。
入京したのち、和気氏の私寺であった高雄山寺に入られ、鎮護国家の祈祷をされたり、灌頂を開壇されたりしました。多くの書物を書き記される傍ら、修行道場を造る目的で高野山を下賜され、弘仁十年(819年)、伽藍建立に着手されました。詩文の創作理論を纏めた書を書かれたり、満濃池の改修を指揮されたりとその活動は僧侶の枠を超えるものでした。
そして、弘仁十四年(823年)に、嵯峨天皇より東寺を賜り、真言宗を立教開宗されました。その後も神泉苑で雨乞いの祈祷をされたり、日本初の私立学校・綜芸種智院を開設されたりと多岐に渡って活動されました。
承和二年(835年)一月に初めて後七日御修法を宮中で行われました。この後七日御修法は東寺で今も連綿と続けられています。同じ年の三月二十一日に高野山で御入定なされました。延喜二十一年(921年)、時の帝である醍醐天皇から弘法大師の諡号を贈られました。
現在に至るまで伝承や逸話が日本全国で語り継がれ、多くの人々に信仰され続けているのは言うまでもありません。

お大師様の年表

 

  

和暦/西暦 年齢 事柄
宝亀五年
774年
  讃岐(香川県善通寺市)に誕生。幼名は真魚(まお)。
延暦七年
788年
14歳 都に出て叔父阿刀大足(あとのおおたり)に儒学を学ぶ。
延暦十年
791年
17歳 大学で学ぶ。
延暦十三年
794年 
 20歳 勤操(ごんぞう)に従って得度
延暦十四年
795年
 21歳 空海と名乗る。(平安京へ遷都) 
東大寺で戒律を受戒。
延暦十六年
797年
24歳 『三教指帰(さんごうしいき)』を著す。
延暦二十三年
804年
31歳 5月入唐求法の勅許を得て難波を出発し8月福州へ到着。12月に長安へ
延暦二十四年
805年
32歳 青龍寺(しょうりゅうじ)で恵果和尚(けいかかしょう)から胎蔵・金剛界・伝法阿闍梨位(でんぽうあじゃりい)の灌頂を受け、遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を受ける。
延暦二十五年
806年
33歳 8月、唐の明州を出発し10月筑紫に帰国。「御請来目録(ごしょうらいもくろく)」を朝廷に提出。
弘仁三年
812年
39歳 高雄山寺(神護寺)にて最澄に灌頂を授ける。
弘仁四年
813年
40歳 各宗の高僧と八宗論を行う。
弘仁六年
815年
42歳 四国八十八カ所を開く。
弘仁七年
816年
43歳 高野山を開く
弘仁九年
818年
45歳 嵯峨天皇に般若心経を講義す。
弘仁十二年
821年
48歳 讃岐(香川県)の満濃池(まんのういけ)の修築別当(しゅうちくべっとう)に任ぜられる。
弘仁十三年
822年
49歳 東大寺に灌頂道場を建立できるようになる
弘仁十四年
823年
50歳 嵯峨天皇より東寺を賜り、真言宗を立教開宗される。
天長四年
827年
54歳 神泉苑にて雨乞いの祈祷を行う。大僧都(だいそうず)になる。
天長七年
830年
57歳 『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』十巻、『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』三巻を著す。
承和元年
834年
61歳
宮中真言院にて後七日御修法を奉修する。
承和二年
835年
62歳 1月、真言宗に年分度者(ねんぶんどしゃ)三人を与えられる。3月21日高野山にて入定。
延喜二十一年
921年
  醍醐天皇から「弘法大師」の諡号を与えられる。